吉野熊野国立公園の父・岸田日出男
[2022年3月1日]
大淀町では、2016年度より「吉野熊野国立公園の父」と呼ばれた郷土ゆかりの偉人・岸田日出男(1890-1959)の遺した資料を保存・活用するプロジェクトを推進しています。
ここではその概要を紹介します。
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「岸田日出男の遺したもの ダイジェスト版」(別ウインドウで開く)
個別の映像をご覧いただくには、3.[大淀町指定 有形文化財(歴史資料)]岸田日出男関係資料・35mmフィルム4巻をご覧ください。
岸田日出男(1890-1959)
岸田日出男(英夫)は、明治23年(1890)11月30日、教員であった父・楢造の長男として、旧高見村木津(現東吉野村木津)で生まれました。その後、大淀町北六田に移住。明治41年(1908)に奈良県立農林学校(大淀町下渕)の林科を卒業後、吉野郡役所(後に奈良県)の技手(技師)として職を得ました。
大正5年(1916)4月、吉野山で東京帝国大学の白井光太郎(しらい みつたろう)博士の講演「吉野名山の保護について」を聴き、吉野群山の山岳渓谷や森林の美しさのもつ価値に気づいたと、昭和11年(1936)の自著『吉野群山』に記しています。
当時、紀伊半島や奥吉野の自然が、森林開発やダム建設による電源開発によって、急速に失われようとしていました。彼は、その豊かな自然を保護するため、吉野群山を「国立公園」にしたいと考えるようになり、多くの仲間たちとともに、吉野郡の山中を隅々までくまなく歩き、その実態を調べました。やがて、幾多の苦労を経て「吉野熊野国立公園」が指定を受けたのは、昭和11年(1936)2月1日のことでした。彼は、地元吉野で国立公園指定運動の要として活躍したことから「吉野群山の主」「吉野熊野国立公園の父」とも呼ばれています。
昭和21年(1946)の退職後も、彼は紀伊半島に押し寄せる開発と観光、自然保護との調整に東西奔走し、失われていく山村の民俗やくらし、伝承を克明に聞き取り、北六田の自宅に膨大な記録と研究資料を遺しました。
昭和34年(1959)4月6日、道半ばの67歳で急死。昭和36年(1961)には、その業績を讃える顕彰碑が、山上ヶ岳(天川村)近くの大峯奥駈道沿いに建てられています。
【参考文献】
大淀町北六田の岸田家には、既に失われてしまった戦前・戦後の生活の記憶や、広大な紀伊半島を舞台にした人と自然とのかかわりが、映画フィルム、写真、聞き取り記録類で克明に遺されていました。ダンボール箱にして60箱をこえるこれらの資料については、2018年1月、岸田家から大淀町に寄贈され、現在のところ4,179件の資料リスト(別ウインドウで開く)ができています(2022年2月時点。資料リストのエクセルデータを希望される場合は、文化振興課まで問い合わせてください。)。これらの資料からは、国立公園の仕事にとどまらない、岸田日出男の勤勉さ、博学さと先見性がうかがえます。その内容を分類すると、以下のようになります。
資料の年代は、江戸時代にさかのぼる古文書を除くと、明治38年(1905)の日出男の農林学校時代のノートから、亡くなる直前に書かれた昭和34年(1959)3月の自筆原稿までの54年間に収まります。
彼の没後は、子息の文男(1919-2015)が資料の保存・管理をしていました。ここでは、整理作業の折、とくに目のついた資料として以下のものをあげておきます。
添付ファイル
2016年12月、岸田日出男が暮らした奈良県吉野郡大淀町北六田の自宅から、多くの歴史資料とともに古びた映画フィルム4巻が発見されました。そのフィルムに遺されていたのは、今からおおよそ100年前にさかのぼる吉野・熊野の原風景でした。最古のものは、大正11年(1922)8月に撮影された、大峯奥駈道や大台ケ原の映像であることが判明しました。現在のところ、奈良県内を撮影した最古の映像となる可能性があります。これらのフィルム4巻は、令和3年(2021年)8月31日、大淀町の指定文化財となりました。
大淀町ではこれらのフィルムを保存・活用するプロジェクトを実施しています。
以下より、デジタル化した動画をご覧いただけます。
「岸田日出男の遺したもの ダイジェスト版」(別ウインドウで開く)
吉野群峯 第2巻(八経ヶ岳~前鬼 大峯奥駈道)
吉野群峯 第3巻(大台ケ原~川上村大滝)
大正11年(1922)8月、内務省衛生局の撮影隊は大峯山系・大台ケ原の映像をカメラにおさめました。岸田も吉野郡役所の職員として、撮影隊に同行していました。
それを編集したサイレント映画「吉野群峯(全3巻)」は、吉野地域を映像化した現存最古の作品です。今回みつかったのは全3巻のうち第2巻(八経ヶ岳~前鬼 大峯奥駈道)と第3巻(大台ケ原~川上村大滝)です。
「岸田日出男の遺したもの 吉野群峯・第2巻(1922年)」(別ウインドウで開く):15分44秒
「岸田日出男の遺したもの 吉野群峯・第3巻(1922年)」(別ウインドウで開く):8分48秒
大正12年(1923)の8月、東京の撮影技師が吉野郡十津川村の依頼をうけて撮影したサイレント映像の一部です。岸田もこの撮影隊に同行していました。
その映像には、奈良・三重・和歌山県の三県にまたがる瀞峡(特別名勝・天然記念物の瀞八丁)が登場します。そそり立つ岸壁や川下りの舟、いかだ流しのようすなど、おおよそ百年前の瀞峡が記録された貴重な映像です。
「岸田日出男の遺したもの 瀞八丁実写(1923年)」(別ウインドウで開く):7分47秒
昭和12年(1937)の作品です。鉄道省の企画で製作され、J・O・スタヂオが撮影と編集を、日本ビクター管弦楽団が音楽を担当しています。
フィルム撮影は、吉野熊野国立公園が指定をうけた後、昭和11年から12年にかけておこなわれたようです。
映像は、和歌山県南端の串本から始まり、那智・新宮・瀞峡・本宮をへて三重県熊野市にいたります。南紀熊野の名所や人々の暮らしが、ナレーションにあわせて紹介されています。
「岸田日出男の遺したもの 熊野路(1937年)」(別ウインドウで開く):12分31秒
岸田日出男関係資料のなかには、イヌ科動物の頭骨(上顎骨)が含まれています。その全長は21.3cm、上顎骨最下部の長さは20cm、頬骨の幅は11.7cm。保存状態は良好ですが、下顎骨はすでに失われています。
これは、岸田日出男が昭和14年(1939)6月20日、吉野郡上北山村西原天ヶ瀬の民家からゆずりうけたもので、明治時代に同地で捕獲された記録が残ります。その形態的な特徴や、骨に含まれているミトコンドリアDNA配列の分析をおこなった結果、すでに絶滅した動物であるニホンオオカミの頭骨と判定されています。その来歴が判明する奈良県吉野産のニホンオオカミの頭骨として貴重です。
岸田日出男がのこしたニホンオオカミ頭骨標本
大淀町では、戦前の映画フィルムや、戦後(約50年以上前)の古い映画フィルムが、奈良県内にどのくらい残っているのかを調べています。つきましては、みなさまの情報をお寄せいただければ幸いです(年代のわからないフィルムでもかまいません)。
古い映画フィルムは、経年による劣化が懸念されます。また、そのほとんどは可燃性の材料で作られているため、放置しておくと発火する恐れがあります。できるだけ多くの方々に、古い映画フィルムのもつ価値と、所在調査の重要性を知っていただきたくためにも、みなさんのご協力をお願いします。
吉野熊野国立公園の父・岸田日出男への別ルート
業務時間:午前8時30分~午後5時15分(土曜日・日曜日・祝日・年末年始を除く)